うた、ことば、ふうけい。

合唱、作曲、その他いろいろなこと。

希望をもって生きていくこと

あれから、8年の時が過ぎた。

そうはいっても、私はそのときは愛知県にいて、中学校を卒業し、高校生活と大学生活を経て、ここまで「普通の」生活を過ごしてきた。
だから、冒頭の言葉を私が言うのも、少し変な感じはする。
とはいえ、あの出来事がわれわれ日本人にとって象徴的な出来事であったことは、否めないだろう。

さて、大震災が私たちに突きつけた課題はたくさんあるが、その中でも重要だと思われるものを一つ上げたい。

  私たちは、希望を持って生きていくことはできるか?

14:46の地震が直接的にもたらした絶望はもちろんのこと、今もいつどこで起きるか分からない地震への不安を抱えずにはいられない。
地震だけではなく、様々な災害、世界情勢など、私たちを不安にさせる要素がたくさんある世の中である。

私自身、不安に対する耐性が強くない。どうしようもなく生じてしまう不安をうまくコントロールできないこともある。

災害に対しては一定の対策をすることも大事だが、対策さえすれば安心できるわけでもない。

絶望を乗り越えること、不安に打ち勝つこと、そのためには何が必要か。
ひとつ大事なのは、希望をもつことではないだろうか。

私が卒論でお世話になった(?)ドイツの教育哲学者、オットー・フリードリヒ・ボルノウはこう言っている。

人間が自分の可能性をあきらめ、悠然と自分の運命に身をゆだねるときに、われわれが希望(Hoffnung)と呼ぶあの未来への信頼にみちた関係を見い出す。われわれはこのなかに、……生命の究極の土台を見い出す。
  (『人間学的に見た教育学』より)

ボルノウの哲学をまがいなりにも学んだものとして、希望という考え方は外すことが出来ないと直観している。
というか、希望をもつしかない。「生命の究極の土台」というのは、それくらい強い表現だと思う。

新聞を見ていても感じたが、多くの被災地は着実に復興への歩みを進めているようだ。
それまでとは違う形だったとしても、未来に向かって、ある種の希望をもって生きていくしかない。

私たちが「いま・ここ」にいるのも、そういったことの積み重ねなのだろうか。

希望することを学ぶために

希望をもつことも簡単なことではない。ボルノウはこう言っている。

希望することを人はまたまず学ばねばならない。
  (『人間学的に見た教育学』より)

希望すること(ボルノウの哲学では動詞的表現になっている)を学ぶにはどうすればよいか。
私も勉強不足であり、そもそも簡単に説明できることでもないと思うが、ひとつ、「言葉」の力が大事ではないかと考えている。
ボルノウも「言葉」については述べているが、それを要約するのは容易でないので、ここでは割愛する。

その「言葉」の力を享受できるものとして、やはり合唱の力は大きいのではないだろうか。
(もちろん、合唱である必要はないと思います。しかし、私は合唱しか知らないのです。それぞれにひとつ大切なものがあればよいと思います。)

詩それ自体に込められたメッセージはもちろんだが、特に合唱組曲は、絶望から希望へと導いてくれる構成で書かれたものが多いように感じる。 そういった構成面の他、音の持つ力を活かすことで、単に詩を読むこと以上に「言葉」の力を伝えられるのが、合唱の大きな魅力ではないだろうか。

このことを強く感じられる作品として、信長貴富さんの『無伴奏混声合唱のための After…』を紹介したい。
YouTubeのプレイリスト

かの『地球へのピクニック』を委嘱初演した柏葉会による委嘱作品。
私たちにとって大切な希望をもたらしてくれる音楽として、この作品もまた、世代を超えて歌い継がれていくのではないかと思う。

東北へ

旅行が好きで色々なところに行ってきたが、まだ東北に行ったことがない。
近いうちに、行きたいと思う。

きっかけは、Harmony for Japanのコンサートで、東北から来た子たちの演奏を聴いたこと。
それだけなのだが、彼らの住んでいるところがどんなところなのか、純粋に気になった。

そこにある風景に、私は何を感じるだろうか。
希望の息吹を、感じるだろうか。