うた、ことば、ふうけい。

合唱、作曲、その他いろいろなこと。

今年も来年もかけていく子らのために

昨日、演奏会で松下耕氏の『この星の上で』を聴いた。全曲通しで聴いたのはたぶん初めてで、演奏のレベルの高さもあって、色々と考えさせられるものがあった。

今から書くのは、曲や演奏に対する考察ではなく、私個人の感じたこと、考えたことである。

終曲の「今年」の後半に、こんなフレーズがある。

子らはかけてゆくだろう

このフレーズを聴いたとき、それまで(どちらかと言えば)思考モードで聴いていたのがのが感情モードに切り替わり、心を大きく揺さぶられた。
フレーズを聴いた瞬間、子らという言葉から未来を想起した。幸せとも不幸せとも言いきれない複雑な世界を生きる人間が、未来もずっと続いていくということ。そして、この先に様々な苦悩や葛藤が待ち受けているとは(おそらく)知らず、無邪気にかけてゆく子らの姿が想起され、涙を流す他なかった。

この世界は、子どもたちのためにあると思っている。というか、自分自身の人生が、いわゆる子ども期のためにあったと思っている。では大人になった今は何のために生きているかというと、子どもたちが「いま」を精一杯生きるための環境を用意してあげられたらいいんじゃないかと思っている。
この世界は、あまりに複雑化しすぎてしまったので、いわゆる大人が、ルールを作ったり経済を回したりしながら社会を維持しなければならない(こう考えると、大人とは社会のルールを作る方法や経済が回る仕組みを知って、活用できる存在といえるかもしれないが、その意味では社会人といった方がいいかもしれない)。そのため、子どもたちが生きるためにも、大人という存在は不可欠であり、いわゆる子ども期が終わったいまも自分が生きる意味になる。

もちろん、子どもたちだって色々な悩みや苦しみを抱える。大人たちが仕事をするように、子どもたちだって勉強をしなければならない。けれど、この世界に生まれたばかりの新鮮な感性は、他には替えられない尊いものであり、新鮮な感性のもとで生きていた時間は、やはり楽しいものだったように思う。もっとも、それは私が幸せだっただけかもしれないが。
でも、だからこそ、もし一人でも多くの子どもたちが幸せを感じられるために出来ることがあるのなら、大人の仕事として、それをこなしたいと思った次第である。

今年も、来年も、その先も、子どもたちは生まれ、地をかけていくことだろう。
そんな子どもたちの経験する世界が、少しでも幸せなものになればいいなと思う。
決してその逆には、したくない。そう決意させる素晴らしい音楽だったことに対し、賛辞と感謝の意を表して、結びとする。