うた、ことば、ふうけい。

合唱、作曲、その他いろいろなこと。

夢の話をしよう その3

出会うこと
全く新しいこと
(塔和子「出会いについて」より)

たぶんこれで最終回。

その1その2で、過去から現在までの話をしたので、未来の話をしておこうと思う。
しかし、残念ながら未来のことは分からない。自分の夢のかたちはこの先も絶えず変化し続けていくことだろうから、確定的な計画について考えることには意味がないと思っている。ただ、根本に何かしらの哲学を持っておくことは重要だと思うので、それについて書きとめておきたい(もちろん、これも「いま」そう思っているに過ぎないものだが)。その哲学が、未来に向かう自分の方向性、ベクトルのようなものを規定してくれると思うからだ。その上で、いまできること、与えられたこと、なすべきことをしていきたい、というのが基本スタンスであることを、初めに書いておく。

さて、今しがた自分が大事だと思うのは、「出会い」という概念である。子どもの幸せのために何かしたいというのと、作曲で人を感動させたいというのが夢だと以前に述べたが、これらの営みを支えるもの、ひいては両者をつなげるものとして、出会いという概念が重要になってくるように思う。

冒頭に引用した詩にもうたわれているように、出会いとは人間にとって全く新しい体験である。すなわち、外部の何かが自分の中(世界)に侵入してくることによって、それまでの自分とは全く異なる自分になる体験である。
人間は本来、出会いを繰り返すことによって、絶えず変化し続ける存在である。そうして外界に適応していくとともに、自己の生を豊かにしていく存在であるはずである。しかし、実際にはわれわれは、好きなもの・こと・ひととばかり接し、自分の好まないものに対して距離を置くなど、出会いから遠ざかった生活をしてしまう。もちろんその方が安全で心地よい。だが、生きていく中で外界との出会いは必ずしも避けることはできず、ふとした出会いが強い衝撃となり自分の世界・存在を突き崩されてしまう恐れもある。常にある程度の出会いに自分をさらすことによって、自分の生は強く、しなやかに、そして豊かになるはずである。そういう環境を、子どもたちに与えてあげたいという思いはかねてから抱いているところである。
(このあたり、適当なことを書いてしまっているかもしれないので、興味のある方は「経験のメタモルフォーゼ : 〈自己変成〉の教育人間学」などをご覧いただきたい。)

そういう出会いをもたらすものには、いろいろなものがあるだろうが、そのうちの一つが音楽だと思っている。聴く側でも演奏する側でもそうだが、新しい(それまで聴いた(演奏した)ことのなかった)音楽との出会いは、その人に何かしらの感情=心の動きをもたらす。一般的に、その音楽がよいものであれば人は感動するのだろうが、実際にはもっと個別的な感情の動きがあるはずである。ネガティブ思考な人が、ある音楽との出会いによって、ポジティブな感情になることもあるだろう。さらにそれが一歩進んで、思考そのものがポジティブな方向に、根本的に変わるかもしれない。
もちろん、意図した方向に他者の思考などを変えることは(精神医学などで何か方法があるのかもしれないが)ほぼほぼ困難である。個々の音楽が持つ意味は、それを聴いた人の過去の経験などによって変わってくるのだから。そのため、人々を元気にする音楽を作りたいというのは、姿勢としてはよいかもしれないが、音楽それ自体にそういう力を持たせることは無謀だと言わざるを得ないだろう。作曲をする者としての自分にできることは、ただただ自分の世界を開示することだと思っている。自分の世界を、できる限り音楽として洗練された形で表現したい。そうしてできたもの=自作曲が、誰かに出会われて、その人に何かしらの意味を与えられたらいいなと思っている。

以上、自分の夢について、その根本に置いておきたい哲学をつらつらと書いてみた。作曲自体は子ども向けにしぼるつもりはないが、いずれは子どもたちに向けた曲集なんてものも書いてみたいと、おぼろげに思っている。自分ができることは、自分の経験してきた世界を曲のかたちで表すことくらいだが、それが子どもたちにとっての「出会い」になればいいなと思う。