コロナ禍が続いている。この1年、なんだかんだで新しい仕事をこなすようになったし、ひとりでいろいろなところにお出かけしたし、少しは友人とも遊んだし、何より、無事に生きてきた。
けれど、どこか満たされない気分になるのは、自分にとって一番大事なことができていないからである。そのことに気づいたとて、コロナ禍は続く。コロナ禍が終わるまで――少なくとも、ワクチンを接種できるまでは、延々と満たされない気分が続くことになるのである。
東京に転勤することになった2020年の春、それまで当たり前のように続けていた合唱活動を一旦休みたいと思っていた。あまりに合唱のことばかり考えていて、心も体も疲れ切っていた。少しの間、ゆっくり休んで考えたら、何か見えてくると思っていた。
しかし現実には、合唱をやりたくてもできない状態が続くことになった。もちろん、対策をして活動している団も多いが、今の自分がそこに入り込む気にはなれない。大人しくひとりで練習するのみである。もっとも、まだ待とうと思えるのは、ワクチンという希望が見えているからでもあるのだが。
ほんとうは、貴重な20代の時間を全力で駆け抜けたいと思っていた。合唱を休みたいと思うだなんて、想像もしていなかった。もちろん、コロナ禍なんてあまりにも想定外である。
かつて、こんな文章を書いていた。
自分の意志だと思っているものも、自分の意志が生まれるよりも遥か前から徐々に形成されてきたものであるので、もはやどうにもすることは出来ないし、逆に言えばそれをこれからもなぞっていけばよい。ぼくはそれで十分幸せだと思う。ただ、そのなぞり方が実はよく分からなかったりする。
そのせいもあって、色々と考えてしまう。でも分からないことに変わりはない。死んだ後のことが分からないのと同じくらい、生きている間のことも分からない。やっぱり残るのは結果だけだ。まさに、自分の後ろに道はできる。
もうどうしようもないな。書いてみて分かった。どうしようもない。どうしようもないという事実を報告するpostにします。まあ人間たまにはこういうときもあるということで。とりあえずまた明日からも生きていきましょう。つづく。
(2018年6月、Tubmlrへの投稿より)
どうしようもない。明日からも生きていくしかない。それはあまりに酷な現実であると同時に、そこにはかすかな希望がひそんでいる。
明日はみんなをまつてゐる。
泉のやうにわいてゐる。
らんぷのやうに点つてる。(新美南吉「明日」より)
「明日」は一筋の光ではない。泉であり、らんぷである。そこにひそんでいる希望は、美しくも、ほんとうにかすかなものである。
だから、最後は祈るしかない。そこに、希望があることを。