うた、ことば、ふうけい。

合唱、作曲、その他いろいろなこと。

病んで、それでも止まないもの

76年前の今日、広島にいた私の祖母は、それから60余年も生きた。計り知れない恐怖を経験してもなお強く生き続けた祖母。遠くに住んでいたから一緒に過ごせた時間は長くなかったし、正直、そういう話を聞いた記憶は残っていない。それでも、祖母が強く生き続けたことが、私の生きる理由の一つになっている気がしてならない。

命が脅かされることの恐怖。今の私たちも感じていることだろう(もちろん76年前とは全然違うが)。けれど何より私が怖いと思ったのは、どれだけ状況が悪化していても、何ごともなかったかのように過ごす人々の姿である。誰かのせいにして、自分の身を自分で守ろうとしない。自分の身がどうにかなるだけならまだしも、他人の心身をも平気で傷つけてしまうのである。

恐怖と怒りがないまぜになって、でもそれを発散することもできず、とうとう私はだめになった。

精神科医に診てもらった。しかし、どうにも自分の状態を理解してもらえている気がしなかった。抗うつ剤の処方せんを出され、次回の予約を取って……それで治る気はしなかった。

でも、そこで気づいた。このコロナ禍も、人々の行動が変わらないのも、それに対して自分が怒りを感じるのも、そういう自分の心情を他人に理解されないのも、何もかも全部……

――どうしようもない。

それで不思議と気が楽になった。命が脅かされることの恐怖だって何も変わりやしないのだが、でも、どうしようもないのである。それで死ぬならもう、それで結構。

街を歩く人々も、電車に乗る人々も、あきれるほど何も変わっていない。もはや彼らには何も期待しない。自衛できる範囲で自衛するのみであるし、むしろそれで十分、命を守れる確率はだいぶ高くなるはずである。だって……

――爆弾が落ちてくるわけではないのだから。

自分の身を自分で守れるうちに、自分たちの行動を自分たちで変えなければならないと、強く思う。そうでないならば、自由は手放されなければならなくなるだろう。

止まないもの。それは、コロナ禍ではなく、「わざわい」そのものなのかもしれない。